亡き人を偲ぶ夏~祖父・一太~
お盆も近づき、亡くなった親類、鬼籍に入った人々について、書くことを試してみたいと考えていました。
父方の祖父・一太についてです。
幸い、うちの父、邦太(くにお)が、祖父か祖母の法事の折りに、祖父の日記を手作りの小冊子にまとめて、残しておいてくれたので、その内容のご披露も兼ねます。
その法事は、平成18年(2006年)9月に行われたものですが、祖父は1978年に亡くなったというのが僕の記憶で、僕が小学3年でしたから、早生まれで8歳。
法事などの計算に詳しくないのですが、祖母が亡くなったのが、2001年の2月でしたから、祖父の30回忌か祖母の7回忌法要かもしれません。そこらへん、くどくなってしまいましたが、知識のなさ、ご容赦を。
いずれにしろ、祖父は5月26日に亡くなりました。父の誕生日でもあったため、僕の子ども心に、強烈な印象を与えました。
祖父が亡くなった時は、映像記憶として、まぶたの奥に焼き付いています。
祖父は、祖父の寝室である座敷の畳の布団の上に横たわっていました。
当時の、診療所の木村医師が診察に駆けつけてくれました。
親類が囲み、伯母や、従姉や、母が泣いていたのを覚えています。
祖父の手を僕と兄の手と握らせたのは、父の姉の伯母だったでしょうか。
僕は、まだ、人が死ぬということの意味をよくわからず、なので、感情の記憶はまったくありません。
5月26日の歴史
後に、この5月26日という日付には、もう一つの我が家の歴史があることを知りました。
戦争当時まで、祖父は祖母と伯父、伯母、父と東京の幡ヶ谷というところに住んでいたのですが、最寄り駅は新国立劇場のある初台というところで、僕も一度、出張時に兄が初台で働いており、行ったことがあるのですが、昭和20年(1945年)の5月26日に、まさに住んでいた家が空襲で焼けたのだそうです。
父の12歳上の伯父が父に教えてくれたのだそうです。
当時すでに、祖父らも東京生活をあきらめて、郷里である旧安代町の中佐井あるいは土沢に難を逃れていたようですが、当時の生活は、特に祖母などがテレビの連続ドラマなどで戦争のシーンが流れると、「おら、こったの見たくねぇ」としかめっ面をして泣きそうな声を出し興奮したように、僕らの世代には想像もできない苛烈なものだったと思われます。
小冊子の父の序文から。
「この6月、家のそちこちを整理していたところ、古い菓子缶の中に、父の所持品が若干ありました。その中に黒い表紙のルーズリーフ・ノートなるものがあり、めくってみると最初の方は会議のメモなどで、凡そ興味なく、そのまま放置していました。ところが、廃棄するにはやはり少しく気がとがめ、では、もう一度、とページをめくると、これが、父得意の洒脱な表現の日記でした。とはいえ、日ごとに連続した何年のものというのではなく、思うに父自身の良き時代の『諸々想い出・保存版』と解しましょうか」・・・云々と続きます。
僕にとっては、地元の商工会で働き、眼鏡をかけて、帳簿の確認をしたり。山が好きで、兄と僕を誘って、昔、借りていた山の畑に連れていってくれたり、といった穏やかな祖父でした。
次回以降、日記をご披露させていただきます。