僕の宵と明けの唄

僕の宵と明けの唄

アスペルガー症候群の僕の生活・趣味を綴ります。

松茸をいただいた奇跡を綴る

先日、かみさんの職場のつてで、「松茸」を手に入れることができた。

立派な松茸が三本。なんと3000円で譲り受けることができた。

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県内の某地にお住いの松茸採り名人が山田町のお知り合いの山から採ってきたものだという。
八百屋さんに卸すものを直で譲り受けた。

かみさんの日頃の人づきあいに僕もあやかることができて、かみさん始め、みなさん様様である。

僕がやったことといえば、去年の冬に、この松茸購入の仲介に入ってくれた方の店で、2万円ほどの商品を買ったことぐらいか。

いずれにしても、実はここ15年ほどは食べていなかった松茸にありつけて感無量である。

思いつきのように過去に松茸に触れた機会を述懐してみると、子どものころは親の力で、松茸を食べる機会が何回かあった。

思い出すのは松茸ごはんの味。今でも、その時の映像が記憶として残っている。

中学生ぐらいだったろうか。父の姉である伯母夫婦が買って送ってくれた松茸をご相伴に預かったのである。

伯母を思い出す

父の姉の話をしたい。
伯母は東京で生まれて、戦禍を避け小学生で一人、疎開
母親の出生地である岩手県浄法寺町疎開する。

戦後、家族は紆余曲折を経て、浄法寺町に定住することになるのだが、伯母は教育の機会に恵まれず、高校へは進学しなかった。

しかし、看護の道へ進み、仕事をしながら夜学して高等看護婦の免状を取り、家計を支えた。

その後、小学校の教諭である夫と浄法寺町で知り合い、後に夫の出生地である紫波町で暮らすこととなった。

この伯父伯母夫婦には本当によくしてもらった。

自分が中学生の時など、夏休みなどに紫波町へ一人泊まりに出かけ、食べたことのないステーキなどをごちそうになったり、映画に連れてってもらったりした。

ボーナス時期には、母親である僕の祖母に必ず現金書留で小遣いを送ってよこし、それが、祖母から僕ら兄弟への祖母からの小遣いともなった。

二人には子どもができなかったこともあるのか、兄弟の子らを慈愛を持って接してくれた。

うちの兄貴などは、高校で盛岡に進学したとき、この紫波の伯父伯母夫婦の家に間借りし、学校へ通ったのだ。

なので、まだ七回忌までいかないが、伯母が伯父を残して、癌で亡くなったときなど、兄も事情があって東京の勤め先を辞め一時、盛岡へ住んでいた時期に重なったこともあり、第二の母として、伯母のかたわらにいた。

僕は、伯母に「やっちゃん。なに、おれ(私)が悪いことしたってよう」と、ターミナルケアの病室で泣かれたときに、いたたまれなくなり、心の中で泣いた。

父は、あとで詳しく書く機会もあるかもしれないが、
戦禍、戦後の極貧の時代を共にした6つ上の姉の死がよほど堪えたようで、父自身の死期をも早めてしまったと思っている。

それだけ、うちの父世代の兄姉弟関係には心のつながりがあり、身を寄せ合って生きてきたという歴史を今でも感じさせる。

■松茸で三品
松茸の話に戻るが、今回は松茸を「松茸ごはん」「松茸のお吸い物」「焼き松茸」の三品で食べた。いずれもおいしく、特に焼き松茸を松茸ご飯の上に乗っけて、温めて食べると、より香りが増していい味がした。

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食べ終わって大満足して、食後数時間、体の毛穴という毛穴から松茸の香りが抜け、松茸の滋味と共に、本当に心地よかった。

今年は、松茸は豊作だったというから、来年はどうかわからないが、また手に入れることができたら、今度は肉を奮発して、松茸のすき焼き鍋なども食べてみたいと思う。

人によっては、松茸を新鮮なうちに味噌漬けにし、生で食べると最高にうまいという、「通」もいらっしゃる。

僕的には、伯母の話をしんみりと書いてしまったが、伯母への感謝も感じながら食べたいと思う。