「風の盆」への旅
日本海側を通るルートの旅に行きがちである。
それは、肯定的な意味では、日本海側の風景を見たいというのが一番だ。
そして、ひとり旅で、自分が行きたいところへふらふらと足を延ばすことを想像したとき、日本海側の方が、太平洋側を通るルートよりも、高速走行の車が少なく、ゆっくり、好きな時に休みを取れる、というのが、自分の勝手な偏見である。
盛岡からだと西和賀を経由して、秋田に入り、湯沢を南下して、山形。山形で休んで、新潟。細長い新潟を縦断して、富山・石川へというのが、過去の車旅の傾向である。
もう何年も前になるのだけれど、岩手から山形と新潟を経由して富山の「風の盆」という祭りを目指して、ひとり車旅をした。富山では、旧知の池田さんが待っていてくれる。
途中の、山形の肘折温泉というところで車に積んで旅の友にした折りたたみ自転車を使って温泉街を回った。
温泉洞窟風呂に入り、おいしい蕎麦屋のおばちゃんたちに、つけものをどんぶりでもらって親切にされたり、こけしづくりに挑戦して、ご主人と話し込んだりした。
その後、米沢へ向かい、役所で紹介を受けて泊まった 小野川温泉で、すんばらしく気の利いた旅館に素泊まりした。
■熊本のおじさんとの一期一会
深夜の露天風呂で熊本から来た60歳のおじさんと2時間 話し込んだ。
夜中の0時を回っていたが、あちらから声をかけてくださり、話を聞くと、熊本から青春18キップを使って、ひとり日本を縦断し、秋田の白神山地保護の関係の会合だかに八森で出席して、帰路、米沢に、紹介を受けて寄ったのだという。
話の流れで、その方が「医師からは今日が死ぬ日だと言われていたんですよ」と。
過去の就職の話から、教師時代、体が弱かったにもかかわらず、子どもたちのマラソン指導をしているうちに、自分も走りたくなり、結果、トライアスロンまで完走するようになった、という話を聞いた。
こちらは、前回書いた、過呼吸になった後の敏感な時期だったこともあり、人の生き方について、感化された。
翌朝、僕は、その方に、いろんな人へのおみやげにと忍ばせていた「そば茶」を一つ、〇〇さんに渡してくださいとフロントに預けて、早めに宿を立った。
翌年、奥様と東北旅行に来るということで、どこかで会えればということだったが、あいにくこちらの出張が重なり、お会いできなかった。
今年の熊本地震、僕は4月14日、扁桃腺の除去手術の当日で、痛さと戦っていたが、夜、ラジオを聴いて、その一報を知った。
詳報が流れるたび、直下型のひどい地震であることに呆然となり、熊本のおじさんのことを思い出した。
smsメールを出したが返信はなかった。
もう地震も鎮静化してきた時期に、思い切って、電話をしてみた。携帯にはつがらず、固定電話にかけてみたら、奥様が出て、「もう七回忌を終えたところです」とのことだった。享年をたずねると、「66歳でした」。
若かった。
奥様に心からのお悔やみを申し上げ、地震の影響などを聞いたが、家が壊れたというような被害はなかったが、一人暮らしになったこともあり、車中泊もしたし、避難所暮らしもした、とのことだった。
幸い、福岡に息子さんがおられて、たまに新幹線で泊まりに来てくれるというのが、安心材料だった。
どうか皆さんを見守っていてください。
富山を目指す
米沢を離れた翌日、新潟に入り、富山を目指した。
カーナビが壊れ、途中の中古屋さんで、買い替えた。富山のヤナセを調べ、次の日に取り付け作業をしてもらう段取りをとっていた。
方向音痴な僕には、カーナビが欠かせない。
かなりの距離を走り、愛車のオペルもへたってきたのか、車についている温度計が40℃を超えていた。
夜中の富山に近い港で、車を休ませた。
その後、新潟の親不知という交通の難所を抜けたところのコンビ二で、深夜、店員のクラちゃん(仮名)と旧知の仲のように、人生について 話し込んだりした。
話題は、自分が今、気になっている女性についてだった。
クラちゃんは作業しながらだったが、割と空いているところだったので、話を続けた。
結果的にクラちゃんが「サトウさんと、その人、合うと思うなぁ」と後押ししてくれ、携帯を解約していた僕は、クラちゃんの携帯を借りて、彼女にメールをした。
彼女からの返事は、「富山に行く」というものだった。
夜も明けてきて、トラックなどが店に集まりだして、クラちゃんとは別れた。
ヤナセに行き、カーナビの取り付けの間、近くの携帯ショップに行き、一番安いものを選び契約した。また、夜の運転で、見えづらさを感じていたこともあり、初めて、眼鏡を作った。
調べてみると、乱視が入ってきていた。
午後、富山の街に到着、池田さんと合流した。あいにく少しの雨が降り続き、胡弓を濡らしてはいけない「風の盆」の練り歩きであるから、数分、見れただけで、終わったが、風の盆の女性の舞、男たちの熱気のこもった踊りと胡弓の音色を味わえただけで満足した。
翌日、彼女が来た。
石川県の小松空港まで迎えに行って、池田さんも事情を呑み込んでくれて、夜、池田さんの行きつけのすし屋で富山の魚介を堪能した。
せっかくの料理だったけど、彼女はアレルギー反応が出るということで、あまり手をつけられなかったね。
そして、あなんたんの水とそれで作ったという醤油をいただき、池田さんとお別れした。
帰路、新潟の柏崎にある恋人岬に寄って鮮やかな夕日をバックに写真を撮った。
断崖を海まで降りて行った映像が目に浮かぶが、彼女は途中仙台で買ったというかかとの高い新しいサンダルを履いていた。
盛岡について、いろんなことの整理をして、彼女は、僕と暮らすことになった。
それが、今の妻です。