僕の宵と明けの唄

僕の宵と明けの唄

アスペルガー症候群の僕の生活・趣味を綴ります。

井の中の蛙、荒野をめざす~台風と地球温暖化と人の生活を考える

こないだまで降り続いていた雨の天気も一旦姿を消し、好天が続いたのでたまっていた洗濯物を洗って、なんだかそんなちっぽけなことなのだけど、心の重荷が取れました。

しかし、今年の台風は性質が悪く、そんな中でもこちとら呑気に豪雨の中をかいくぐって小旅行などに出かけてましたが、岩手県では岩泉町などをはじめとする川の氾濫、それに伴う流木などによる道路の寸断、田畑などへの土砂の流入・・・。
農作物への影響、農作物を収穫して流通させる手段の停止。

また、釜石市などの沿岸部では、ほたての養殖棚が川からの流木でやられ、せっかく良好に育っていたものが死滅してしまうなど、本当に胸が痛む、大震災の時に感じたような虚無感のようなものを感じさせるものでした。

台風被害は全国各地でも局所的にあったようで、九州のどこかは忘れましたが、ブリの養殖生簀に岩手と同じように流木が無数に散乱して、ブリが逃げてしまったとか、被害が出ているようで、これも悲しくなりました。

岩手の釜石の漁師さんたちは、ほたての養殖棚の網に絡みついた大きいいものから、小さいものまで、無数の流木を自力で回収して、その量の映像には驚かされました。

そして、養殖棚の網の下に新たに重りをつけて、それは袋に砂利のようなものをつめたものでしたが、それを皆で声かけあって運ぶ姿に頭が下がりました。

■昔話
話は大きく変わりますが、昔、臨時職員の女性がパワハラに合いました。「あなたは女とは思えません」というような内容の中傷文で、全文を上司が皆の前で読み上げましたから、主流のA4用紙一枚くらいの文章の量だったと記憶していますが、彼女は傷ついて職場を去りました。

上層部はそのときの対応はセクハラが云々という注意喚起をしましたが、後になって犯人が一回り上の正職員だということを知りました。
それは、そのことを知った僕がある上司に訴えても、「そんなことは聞きたくない。誰かを疑って仕事をしたくない」という返事で、犯人が誰かを伝えることも叶わず公にされることもなく、犯人はのうのうと普段通り出勤していました。

しかも、臨時職員の女性が辞めるにあたって手袋をプレゼントするということもしたそうで、自分が犯人であることを隠す工作までしかたと思うと、書いてる今でも胸糞が悪くなってきます。

僕は馬鹿なので、犯人が誰かを辞めた臨時職員の彼女に後日電話で伝えました。
彼女は、確かに、机の引き出しだったかに入れられていた紙を丁寧に扱い、指紋を取れるものか警察に訴えることも考えたそうです。
けれど、犯人の職員が、辞めた彼女の比較的近くに住んでいることなどから、

「生きていけなくなるし、これから年を重ねたら同じようなことをやるかもしれない。だから、もういい」

と僕に伝えました。

当事者がそういう選択をしたのなら、もう何もできません。

実は、被害者は彼女だけでなくて、過去にも、同じような嫌がらせを受けた男性職員がいました。

彼は別な理由で辞めましたから、今思えば、彼がその時受けた被害を上司などに言って抑止が働いていたら、その臨時職員さんが被害者になることはなかったかもしれません。

いずれ、終わったことです。

しかし、その犯人であった職員が起こしてきた行動や心情を推察するに、例えば臨時職員の女性がほかの職員に好かれ、頭脳も明晰で仕事もてきぱきとこなし、男性職員らと釣りにでかけていたことなどから、「自分の存在を否定された」と感じたのではないかと思っています。
また、何かのコンプレックスがあったのか自分より弱い立場にある人間にいじわるをする面がありました。

人は大同小異・・・

なぜ、このことを書いたかというと、今でも憤りがあることの発散でもありますが、「人」について考えることがあったからです。

「一生不悟」を掲げる人もいますが、たまに考えたくなることもあります。

そのとき、ベランダの椅子に座りながら考えていたことは、

「人ってそんなに大きな違いはなくて、大同小異なんだけれど、でも、その小さな違いが喜怒哀楽や時には悲劇を生む」
ってことです。

容易に人を嫌いになったり、傷つけたりするのはなぜなのか。
憎しみをあおる行為は何のためなのか。

「未開」の地の「未開」の住人たちは自然と共存して生きている。
その中に「生活」があって「掟」があって、生きている。

一方で大都会にホームレスが何千人といて、問題化しつつも、そこにはそこの生活がある。

大都会の近くに貧民街があり、治安が悪く日々血なまぐさい抗争が繰り広げられている。銃の近くに子どもたちの遊び場がある。

心を慰めるはずのものが憎しみの原因となり、戦争の火種となっている。


僕も文明の恩恵に浴しながら、文明によってもたらされた地球温暖化は、もう歯止めが効かず、ネットニュースなどでも「危険な割に儲からない職業」に林業が挙げられ、それが、流木被害を拡大させる一因となっているという「有識者」の意見を聞く。


「生活といううすのろ」と佐野元春は歌に唄ったが、「生活」があるから知恵が生まれ、風習が生まれ、掟の中で生きている人々がいる。

何をどうこう問題提起も結論づけもできないし、こんなことを書いても自分の小ささを露呈するだけなのかもしれません。

死んだ親父はよく「下手な考え休むに似たり」と言いましたが、「井の中の蛙が荒野をめざす」ようになることがたまにあります。